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竹帛

歴史参 / Under China Rule Part2

越南史

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中国支配編その二。
この時代は文献が中国のものが中心ですけれど、近年は考古学の成果なども利用できるようになっているようです‥‥‥。


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dot 知られた時代の知られざる地域

さて時は移って北の中国は後漢の末、ご存じ黄巾の乱でしっちゃかめっちゃかの大騒ぎの時代を迎えます。この頃ちゃっかりと北ベトナムに半独立勢力を張ったのが士王とか学祖と後代尊称される士燮(シーティェップ)でした。彼は洛陽で学んで当代有数の学者となり、霊帝より交州刺史に任ぜられ、大きな戦乱に巻き込まれず、ほぼ四十年間この地を支配します。
許靖や袁徽など戦禍を避けて彼のところに避難してきた名士も数多く、士燮は彼らを通じて魏・蜀と接触していました。許靖は蜀へと仕官し、袁徽などは魏の文官荀ケに士氏の内情を書き送っており、スパイ説さえあるほど。ただし形式上は、隣接する呉に服属。呉は土着勢力である士氏が世襲によって自立するのをおそれていましたが、うっかり士燮の存命中に手を出すとパワー・バランスの都合上、魏や蜀が黙ってはいないだろうし、『あの老爺、一体いつまで生きている気だ!?』とじりじりしつつ(想像)、孫権はじっと機を窺っていたわけです。ちょうど魏にとって、朝鮮北部に勢力を張った公孫氏が目障りだったのと一緒ですね。公孫氏は呉とつるんでいたわけですし。
黄武五年(226)士燮が九十歳(!)で死んだあと、そのあとはあっと言う間に呉帝は士氏の一族を駆逐し、交州を制圧してしまいましたとさ。ベトナムの南方物産とチャンパを通じて入る交易品が目当てであろうというのが通説のようです。また、交州北部の山岳地帯を介した南方貿易路をつくろうとしたのが俗に言う諸葛亮の南蛮遠征だったとか。同時期、実在説が一部疑われてはいるものの、初期中国仏教史に名を残す牟子(ぼうし)も士氏の支配するベトナムで活動していました。士燮は外出時、その行列に胡僧が連なっていたという記録もあり、仏教とも関係があったと言われています。個人的にはバラモン教も捨てがたいと思うのですが。


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dot 巨○美女の起義

さてハイ・バー・チュン後も、大小の蜂起はありましたが徴姉妹に懲りた漢人王朝は徹底的に鎮圧を繰り返して行きました。面白いのは呉の支配時に蜂起した趙嫗(チェウアウ)でしょうか。大規模になりかかった彼女の蜂起は勿論潰されましたが、彼女の出で立ちは様々な意味で(?)印象的。二十歳そこそこの娘が皮の鎧を纏い、金を塗った履をはき、象に乗って指揮をする。そして、その乳房は長さ三尺で鎧に入り切らず肩の後ろに引っかけた、って、いくら何でもそりゃやりすぎとちがう?‥‥‥せめて胸囲にして欲しい(^_^;)この時代、後代の歴史家呉士連(ゴシリェン)が『女の義侠心に比べて、男は何をしていたんだ』と嘆いています。


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dot とっても大雑把にいきましょう

さてさて南北朝と隋唐時代。南朝は貴族社会となり、武人たちの勢力に追われるように直轄地を失いつつありました。いろいろあったんでしょうけど、中央の史官の目が地方に行き渡らないために記録が少ない、つまり地味ーな時代。しかし一方、王朝周辺では没落貴族の名を借りた少数民族と土着勢力が成長している時期でもあります。
相も変わらず抵抗は続き、南朝梁の時代、李賁(リィビ)という者が蜂起し、万春(ヴァンスァン)国という独立王国を一時築きました。彼は李南帝(リィナムデー)と後世尊称されます。ついで馮興(ホンフン)が中国に対して反旗を翻しますが、これは隋代に制圧されてしまいました。


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dot 繁栄のかげで

隋唐の時代では、交州は嶺南(れいなん)や安南(あんなん)と呼ばれ、中央集権の大きなうねりにさらされます。隆盛を極めた東西海洋貿易の拠点として紅河下流の中洲に築かれた海港雲屯(ヴァンドン)が発展し、奢侈品の供給地としての重要性が増しました。そのためベトナムには安南都護府が置かれ、唐の統制が厳しくなりました。左遷・流刑の土地として、また中国官吏たちの収奪の対象として相当の負担を強いられ、反乱が続発します。さらに少数民族と南詔王国の侵犯による人や物の収奪が度重なります。唐の繁栄もベトナムの住民にしてみればえらい迷惑な話だったということですね。


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dot あまのはら

これら都護府の長官達の中で変わり種が一人。時は安史の乱の真っ最中、唐王朝危急存亡の秋に派遣されて老体をおしてきたのは朝衡という人。そう、あの遣唐使として来朝し、帰国に失敗して唐に骨を埋めた阿倍仲麻呂のこと。(ちなみに、彼を主人公としたある小説では仲麻呂を安南の王といっていましたが、これは言い過ぎ。如何に大きな権力があるとはいえ唐の一官僚にすぎません。)しかし、ただでさえ暑い地域に温暖期(ヒプシ・サーマル)であった唐時代のベトナムに漂流したうえ、能力を買われたお役目とはいえ、また舞い戻ってしまった還暦を過ぎの彼の心境は‥‥‥。


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